
玉護眞理子(たまもりまりこ)

幼少の頃〜自然の中で
横浜市上大岡で父の務める旭化成の社宅で年長まで暮らしていました。
ピアノと出会ったのは3歳の時、音感教育も受けながら、厳しい母のおかげで年長の頃に「人形の夢と目覚め」を弾いていました。
まだ、開発途中の土地で、社宅裏の野原でザリガニやヤゴを取ったり、シロツメクサで花飾りを作ったりして遊んでいました。
小学生〜突然の別れ
転勤で九州にある宮崎県延岡市に住み替えました。
市全体が旭化成の街になっていてたくさんの社宅が並んでいました。
そこでは 桐朋の「子供のための音楽教室」のカリキュラムでソルフェージュを1週間に、1時間のソルフェージュのグループレッスンと30分のピアノの個人レッスンを受けていました。
お友達を一緒に歌いながら学校に通いました。
3年生の時に岐阜県各務原市に転勤しました。
そして父に死別しました。
葬儀の時に「これからどうなっちゃうんだろう」と子供心ながら思ったのを覚えています。
それからは母親に養ってもらいました。
ピアノを弾くのが好きで近所の先生に習いに行きました。
5年生から課外コーラスクラブに入って土曜日の午後は歌を楽しんでいました。
6年生の時は授業、合唱、学校の行事の全ての伴奏を引き受けていました。
それと周りは田んぼや畑だらけで四季の移り変わりを楽しみました。
中学生〜部活との両立
ピアノを弾きたい、ブラスバンド部にも入りたい、勉強もしなくちゃ、みたいな生活を送っていました。
ブラスバンド部ではテナーサックスを奏していました。
とても肺活量がいるので腹筋を家でしました。
合唱の伴奏もよくしていて、3年生の最後の全体合唱でも学年代表で伴奏しました。
ピアノの先生にはブラスバンドをやめるように何回も言われましたが、仲間と一緒に練習するのが楽しくて中2まで続けました。
勉強は、好きでピアノの合間(笑)にしていました。
家に帰ってピアノの練習は7時くらいから10時くらいまで。
勉強はその後にやっていました。
でも、ありがたいことに成績は上位でした。体育と家庭科はなかなか5が取れませんでした。
音高へ進みたかったけど母の事を考えて、進学高校を希望しました。早くから両立していたのがよかったかもしれません。
高校受験〜岐阜高校へ
中学校の音楽の先生も心配して「高校はどこにいくのか?」と尋ねてくれました。
進学校に行くと伝えたら
「幅の広い勉強をするといいよ。大学に行くときにまた考えればいいから」
とアドバイスをくれました。
岐阜県立岐阜高校へ受験するも、見事合格をいただけました。
さすがにこの高校時代は、部活動はしなくて勉強とピアノにつきました。
ところが高校は優秀な生徒達がいっぱいでした。
まだ、音楽の道を諦められない私は学校が終わるとすぐに家に帰って4時には帰宅。
30分ほどの市内電車の中では仮眠か好きな小説を読んで帰宅しました。
それからピアノとソルフェージュの練習、合間に食事の手伝い、膨大な宿題、もうアップアップしていました。
成績は文系の半分位でした。
学生〜資格取得
大学は東海地方では、大手企業の就職率が高い名古屋市にある愛知淑徳短期大学国文学科に進みました。
同時にヤマハのグレードを取得したいと思い、現ヤマハミュージック名古屋店に相談に行きました。
とても親切な係の方に先生を紹介してもらって、1年生の12月に演奏グレード5級を、3月に指導グレード5級、2年生の7月に演奏グレード4級を取得しました。
指導グレードは、和声という和音を連結させる科目が出来なくて和声だけ習いに行きました。
そんな中、就職も 勉強方法も違うため、学校では2年生の時は学友から仲間はずれにされました。
でも卒論で取り上げた万葉集は、今でもお気に入りです。
ヤマハ音楽教室〜生徒50人!
ヤマハ幼児科講師になり、ヤマハミュージック名古屋店に配属されました。
母がグランドピアノと講師用のエレクトーンを買ってくれました。
それから個人レッスンに代り、名古屋市を中心に50人ほどの個人レッスンをしていました。
音楽センターの講師さんも少しレッスンしました。
また、即興、ピアノ、エレクトーンとその合間をぬってレッスンを受けていました。
その時に電気文化会館が出来て、ピアノの先生が発表会を開いてくださいました。
なんて素敵なホールとピアノ(スタインウェイのフルコン)だろうかと感激して、それからますますピアノを練習するようになりました。
そのうちに大きなホールでピアノの演奏会を開くのが夢でした。
結婚〜お寺のお嫁さん
仕事と練習の日々でしたがある春のお彼岸、祖母の命日の日に、親戚の家で母と叔父が私の将来を心配して、お参りに来てくれたお寺の住職に嫁ぎ先の相談をしたようです。
それでお見合いの話になりました。
主人と引き合わせてもらい25歳で結婚しました。
と同時に仕事を辞めました。
慣れないお寺の生活とお手伝いの方々と生活の違いに悩まされました。
子供も生まれ、バタバタでした。
が、二人目の子が幼稚園に通い始めた頃、30歳、親戚や友人の子と娘と3人でグループのピアノレッスンを再開しました。
ヤマハのグレードも演奏、指導とも3級を取得しました。
子育て〜自主性を重んじる
子供が小さいときは、親の欲目か、こうなって欲しいというのが強かったです。
子ども3人とも初歩は私がピアノを教えました。
ある程度大きくなってからは、これではいけないと子供たちの自主性を重んじる関わりに変えていきました。
子供達
1番上の子は男の子(1990年生まれ)でおとなしい方でしたが、時々トラブルを起こしていました。
高校は自衛隊に興味を持ったので、神奈川県横須賀市の陸上自衛隊の少年工科学校に入りました。
東日本大震災の時は岩手県にいたので、災害派遣で2週間ほど現地入りしていました。
2番目の子は女の子(1993年生まれ)で、2歳から音楽に合わせて体を動かせるのでバトンのお稽古を始めました。
年長にはバレエ教室に入り大学2年生までレッスンに通いました。
もちろんピアノも弾いていました。
小学校2年生ではピアノ教育連盟のコンクールで東海地方で賞をいただきました。
4年生の時にピティナコンペティションで地区本選にも出ました。
バレエをやっていたせいか、体の使い方が上手で、
感受性が鋭かったです。
この頃になると外部の先生にも見てもらうようになりました。
先生はおおらかな先生で、たくさん褒めてもらえたのも良かったようです。
小学校6年生の時に宝塚ジェンヌに憧れて声楽を習い始めました。
それから声楽の事やオペラに興味を持ち、名古屋市立菊里高校音楽科に入学しました。
東京の音大に行きたいと言い出し、尚美学園大学の特待生になり4年間過ごしました。
もちろん、私や下の娘もよく東京へ遊びに行き、ピアノのレッスンも受けていました。
岐阜に帰ってきたのに、国立音楽大学の3年編入でもう1度、東京に行ってしまい、現在も学校の先生をしながらオペラ歌手をしています。
2022年新学期から埼玉県の高校の先生に正規採用され仕事します。 コロナ禍ですが、日本クラシックコンクールで5位になりました。
末っ子は女の子で(2003年生まれ)で、3歳から小学校4年生までバレエ教室(トウシューズまではいていました)
いつのまにかピアノレッスン、小学校5年生から声楽レッスンと音楽に関することばかり中学3年生の夏までしていました。小学校6年生はピティナコンペティシ地区地区本選に出演したりコンクールにも入賞していました。この頃は東京にレッスンに行って、脱力がわかってきれいな音が出るようになりました。譜読みが早くて中学生になる頃はたくさんの曲を練習していました。
が、一大事件が!全部やめて進学高校に入りたい、将来は自分で生活できる仕事に就きたいと言い出しました。
意思が固く、岐阜県で1番宿題が多いといわれている岐阜北高校に入学、英会話教室には通いましたが、塾も行かずに2021年に北海道大学総合文系に現役合格しました。学部を2年生になる時に決めるので1年生は勉強が中心です。
子育てしながら大学へ
長女が小学校2年生の時に、38歳で岐阜大学教育学部音楽教育講座に3年編入で入学しました。
この時もピアノ教室は続けていました。
入った年に教職の免許のために小学校と中学校へ教育実習に行きました。
4年生になってしばらくして次女が生まれましたので、大学院に進むことは辞めて家事に専念しました。
この時もピアノ教室だけはやめずにがんばりました。
その間に今の声楽の先生に出会い、長女とともに声楽のレッスンもスタート。
音楽教育の研究
ある日、岐阜大学の音楽教育の先生から、学会の事務局を引き受けたので、事務を手伝ってほしいと連絡がありました。
以前に子供達を全国大会のワークショップに出してもらったことがあって、興味があるので引き受けることにしました。
母校の大学に行くことになったので、大学院で音楽教育の授業の研究生として授業を受けました。
次の年には「もう少し勉強したいのなら、大学院に入って修士を取得したら」という教授の言葉で大学院を受験することにしました。
大学院では初心者の幼児が、どうやったら楽しく音符を読むことが出来るかを、シールを使って読む方法を2014年に考案しました。
ピアジェ式音符カード
図形認識を利用したソルフェージュの提案 ー音高の認識を中心にー
https://ohka.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=194&item_no=1&page_id=13&block_id=21
後々このピアジェ式音符カードを使って生徒指導に生かしました。
名刺より少し大きなカードに小さい丸いシールを貼っていく子供の小さい手、それをすぐにピアノの鍵盤で弾いてみる姿は一生懸命でかわいらしいです。
幾種類かできあがったカードを楽譜の横に置いて曲を弾いてみると、少しヒントをあげただけで幼児の曲はどんどん音読みできてしまいます。
そんな時は思わず「すごい!」てほめちぎってしまします。
ピアノリサイタル
その頃はピアノリサイタルを開催して演奏活動にも充実した生活を送っていました。
それから時々リサイタルを開催します。
今でも毎日3~4時間は練習しますがリサイタルになると2ヶ月前から5時間、最終週は10時間ほど練習します。
また、名古屋で名門のエウロリリカというオペラ団体の合唱にも出演し始めて聞き取りにくいといわれる大合唱の時のピアノの音を聴いて歌っていました。(育脳の聴覚発達でしょうか)
ピアノの先生はそこでコルペティトゥールをされていて知り合いました。
東京に行き始めて3年ほどで義母が余命半年ほどといわれて、お寺の仕事を覚えこなすために東京には通えなくなりました。
大学院を修了して、しばらくするとピアノの先生が桜花学園大学の非常勤講師を紹介してくださいました。
その間に日本音楽教育学会に入り、全国大会での口頭発表を2020年、2021年にいたしました。
大学の紀要にも論文を掲載することができました。
2021年から岐阜大学教育学部のピアノ非常勤講師にも呼んでいただいています。また、大学では幼児向けの歌、小学校の文科唱歌の弾き歌いを教えています。当然、ピアノ教室は歌もいろいろな幼児向けの歌をマスクと換気に気をつけて歌っています。
ピアノ発表会
生徒達も増えて岐阜県で1番、人気のあるふれあい会館サラマンカホールで10年ほど毎年発表会を開催できるようになりました。
年少からレッスンに通ってくる生徒は半年ほど五線はないけれど、音程のある音符だけの教本を使っています。
最近は主として、リズムと指番号だけのテキスト「バスティンピアノパーティ-」シリーズを使っています。
最近は子供が想像しやすい挿絵のある伴奏に合わせて弾く「まいぴあの」も生徒によっては使用します。
「バスティンパーティ-」シリーズを使うと、大きくなったときにシャープやフラットがたくさんあっても嫌がらずに弾きます。
みんなおしゃべりが大好きでレッスンの始まりや終わりには学校であったことや興味のあることを話していきます。
もちろん、ピアノが大好きでレッスンでこなせないほどたくさん練習してくる子達がいっぱいいます。
2020年のコロナ禍のために生徒さん達とオンラインレッスンも含めてピアノを弾く楽しみを広げようとソーシャルディスタンスや手指の消毒にも気をつけて生の演奏会を続けています。
教室から羽ばたいていった生徒さんたち
内向的で、すぐにできない生徒さん
小1〜高校1まで通ってくださいました。
でも、ちゃんと言われたことはできる子でした。
あまりいうと萎えちゃうタイプだったのでゆったり育てました。
そんな生徒さんでしたが、お勉強もよくできるようになり、めきめきと上達。
なんと学芸大学の幼児教育に現役合格。
公立の幼稚園の先生になりました。
岐阜高校には多くの生徒さんが進学くださいました。
今までに6人、加納高校2人、岐山高校、長良高校にも進学しています。
加納高校音楽科の声楽にも合格しました。
それぞれに生徒さんとの思い出が詰まっています。
Aくんは小学校2年生の時に、指の骨に異常があって、強く力がかかると骨折,する事態になりました。
それでもピアノを弾きたいと言って頑張って通ってきてくれました。
無理なくソフトな曲を選んでそーっと弾くようにしました。
4年生の発表会にはテンポが速くても負担のかからない曲を弾きました。
中学生になってからはケロっとしてもう普通に弾けるようになりました。
名曲を次々に弾いてきました。
内申書に書けるようにヤマハの学習者用グレード6級を取得して岐阜高校に進学しました。
Bさんはお母様が同年齢で友人達が何人も知り合いでした。
小学校1年生から通ってきていました。
最初の頃は自宅でレッスンしてほしいと言うので通いました。(今は出張レッスンはしていません)ある日のこと、見たいテレビとレッスン時間が重なって、到着と同時に「先生、帰って」とBさん、たまたま居合わせたお父様に彼女は叱られて、レッスンをして帰りました。
お父様がポピュラー音楽が大好きだったので6年生の発表会には「渚のアデリーヌ」を弾いてプレゼントしていました。
彼女は大好きな生物を勉強するために三重大学に進学しました。
cさんは小学校6年生の時に「歌とソルフェージュ」という楽器店のレッスンに通ってきました。加納高校の音楽科に声楽で入りたいと最初から目標を持っていました。他のところで歌っていた様ですが、発声がうまくいっていなくて、まるで2つの声が聞こえてくるような感じがしました。そこで腹式呼吸や発声の方法を娘と一緒にグループレッスンしました。また、時折、私の師匠のレッスンも受けてもらいました。みごと加納高校音楽科に声楽で入学しました。それからは名古屋の音楽大学に進学しました。彼女は中学校3年生までソルフェージュや声楽を習いに来ていました。
Dさんは岐阜大学教育学部音楽科を卒業してセンターのピアノ講師をされていました。そのセンターで指導者用のグレード5級を取得するためのレッスンをお願いされました。まずは演奏グレード5級からといって1年足らずで合格されました。結婚して京都に住まいを換えましたが、とある楽器店でグレードを取得しているので採用されました。
Eさんは尚美学園大学ピアノコース卒業でピアノ・リトミック講師っをされています。リトミックに役立てるために指導者用のグレードを取得したいいらっしゃしましたしゃいました。こちらは5級の指導グレードの取得を希望されましたのでコードの勉強や和音進行の勉強をしまして1年足らずで合格されました。
その他
生徒のコンクール (通算)
ピティナ地区予選奨励賞 A2級 2人 A1級 3人 B級 1人 ピティナ地区本選出場 A2級 3人(内1人奨励賞) A1級 4人 B級 2人 C級 1人
ヤマハ 学習者用グレード 6級 4人 指導者用グレード 演奏グレード 5級 1人 指導グレード 1人
指導者プロフィール
岐阜大学教育学部音楽教育講座、岐阜大学教育学研究科音楽教育専修卒業。
ピアノにて2009年第21回夢コン全国大会日本アーチストビューロ賞をフェイマスコンチェルト部門で受賞。
2010年第2回HANAMIZUKI芸術フェスティバル 銀賞第2位。 第11回NBKコンテスト優良賞入賞。2011年第13回万里の長城杯国際音楽コンクール入賞。 声楽にて2012年第5回HANAMIZUKI芸術フェスティバル 銀賞、全国大会出演。 2017年第19回万里の長城杯国際コンクールにてピアノ優秀賞、声楽奨励賞受賞。
2013年じゅうろくてつめいギャラリーにてピアノソロリサイタルを開く 2015年サラマンカホールにてピアノリサイタルを開く。 2016年ウィーン岐阜管弦楽団とピアノコンチェルトを演奏する。 2017年じゅうろくてつめいギャラリーにてピアノソロリサイタルを開く 2019年クララザールにて娘玉護文乃と声楽のジョイントリサイタルを開く。 伴奏者:石山英明氏
ピアノを讃岐京子、森裕子、大嶺未来、石山英明、マスタークラスをリスト音楽院ジョルジュ・ナードル、イタリアにてアレッサンドロ・ピエルフェデリーチ、グレンダ・ポッジャンティ各氏に師事。
声楽を八神利夫、岡本茂朗の各氏に、イタリアにてマスタークラスをルチア・マッツァリーア、ロッサーナ・ポテンツァ、オッターヴィオ・テッレーニ各氏に師事。
作曲を故松田宣正、佐原秀一、西尾洋の各氏に師事。
音楽教育学を松永洋介氏に師事。
リトミックを荒木裕子,浅野加織各氏に師事。
多数の演奏会やロビーコンサートに出演。合唱の伴奏でも活躍している。宮内庁主催の外交団の晩餐会でBGMを務める。
桜花学園大学非常勤講師、岐阜大学非常勤講師。 日本音楽教育学会、日本学校音楽教育実践学会、日本ジャック=ダルクローズ協会 各会員 羽島市音楽芸術協会会員